おっと、いけない。うっかり新発売の電子カードゲームやコミックのあれやこれやに追われているうちに、すっかりと時間が経ってしまった。もしこれがきっちりとした連載原稿ならば、はっきりとおしまいである。掲載誌にはがっつりと穴が空き、僕の胃にもぼっこりと穴どころか、ごっそり臓器ごと溶けて、たっぷり血反吐をまき散らしているに違いない。考えただけでもげっそりでぐったりであるが、がっかりしなくともまったりなので、ちゃっかりばっちりだからにっこりでさっぱりである。
ともかく、いくら時間が過ぎてしまおうと、小説やエッセイを享受するうえでは知ったことではない。たとえドストエフスキーの『罪と罰』を入浴中にさくっと読み切ったとしても、長い年月をかけてようやく死の床で読み終えたとしても、どちらも想定された読書体験の範囲内である。文字を追うペースも、紙を捲るテンポも、意味を処理するスピードも、すべてが読み手の自由に委ねられているからだ。言い換えれば、文芸は読み手の時間をまったく考慮しないし、そもそもコントロールができない不憫な表現媒体だといえよう。
一方、映画は代表的な「時間芸術」に数えられる。ひとつの物語を共有するためには、例外なくおなじ時間を要求するわけだ。そう、例外なく。もしあなたが「面白すぎて体感的には一瞬だよ」といった感想を述べたら、そりゃ錯覚だね、で済まされるが、あろうことか「二倍速で再生したわ」などと不遜な笑みを浮かべて誇らしげに発したら、もう生きては帰れない。どこからともなく猟奇的なクリストファー・ノーランが現れて、『フォロウィング』から順にルドヴィコ療法を施されてしまうだろう。なんだか贅沢な映画体験にうっとりしそうだが、さておき、映画の根幹たる再生速度を変えてしまったら、もはやそれは作り手の意図とは違う別の作品である。
ずいぶんな物言いになるが、映画のための環境や設備にまつわるあらゆる妥協を認めたうえで、最後まで作り手が干渉できる聖域が「時間」しかないのだ。映画にとって映像は表皮にすぎず、物語も骨格でしかない。あくまで時間こそが命を躍動させている心臓なのだと断言できる。いや、断言はこわいので異論も認めよう。ただし、あっちこっちで暴れている野生のノーランに嚙みつかれたくなければ、黙っているのが賢明だぞ。
ところが困ったことに、文芸もまた「時間芸術」にカテゴライズされる表現形態らしいのだ。おいおい、そりゃないぜ、と野良ノーランも肩をすくめて苦笑いだ。「一方」で語りだしたくせに、この話運びはひどい。本当の対立概念は絵画や彫刻といった「空間芸術」であり、文芸や映画、音楽だって立派な時間芸術の一員である。
言われてみれば、時間と空間とは直感的にもわかりやすい線引きに思える。両者を隔てているのは「方向性の有無」であって、だから映画と文芸は親和性が高いのだ。
たとえば映画がオープニングからエンディングに向かってまっすぐひた走るように、文芸も左から右へと、文字によって読み進めるべき方向が一意に定められている。つまり時間芸術というネーミングに反して、時間そのものには本質がなく、不可逆性を有した表現全般を「時間芸術」と呼ぶのだろう。
そう考えるとしっくりくるが、まだ痒いところに手が届いていないもどかしさがある。もっと美しく体系立てて、たとえば整頓された書庫から適切な本を薬指で引き抜くような優雅さで、「かくして、ほっこり芸術のジャンルはもっこりでござる」と、一言でばしっと本質を言い表したいのだ。ややや、いまの例えが成立していなかったので余計にわかりにくくなってしまったが、なんにせよ文芸と映画での「時間」の扱いが異なっていることはすでに明示したのだから、細分化しなくては指示しているものが伝わらず、実用的ではなくなる。不便の極みだ。役立たずめ。こうなったら、言い出しっぺがちゃっちゃと適当な言葉を見繕ってしまうにかぎるな。
もし芸術が「時間」と「空間」に大別できるのであれば、引き合いに出すべき概念はニュートンとアインシュタイン以外にありえない。仮に映画を「絶対時間芸術」、文芸を「相対時間芸術」と置いてみると、おおっと、いきなりビンゴではないか。時間は絶対だと信じていたニュートンのごとく、作品が有する時間を「定数」だと捉える表現はすべて絶対時間芸術に含むことができそうだし、反対に、アインシュタインのように時間は観測者によって変わってしまう「変数」だと捉える表現は、すべて相対時間芸術といえそうだ。ともに方向性を示したまま、映画や文芸の特性も失っていない、ジャストフィットな造語である。気に入った。手前味噌でいこう。これで時間芸術内のさらなる分類が進んだように思いたいが、いかんせんリリースには程遠いだろう。もっと的確に、気軽に使える用語でないと、一般ユーザーにダウンロードしてもらえない過疎コンテンツになってしまう。
しかしここまでのアイディアは悪くないのだ。突貫工事で構わないから、絶対時間芸術に含まれている「映画」と「音楽」だけでもなんとか区分けしておきたい。視覚芸術、聴覚芸術のような五感に沿った言い回しもすでに存在するが、これを採用してしまったらニュートンやアインシュタインらに顔向けできないではないか。ならばいま作った概念に足し算していくしかない。巨大な偉人の背中には、ほかの偉人をめり込めせて合体させてしまえばいいのさ。さっそく偉人ガチャを回して……なんだこりゃ。偉人を超越して神を引いてしまった。さすがに人間でまとめたかったのに、中国神話の伏羲とはこれいかに。一応、五経のひとつ『易経』を記したことになっているのだから偉人でよいのだろう。
せっかくだから屁理屈をこねてみるか。お、きたきた、『易経』にまるごと使えそうな記述があるぞ。
――形而上なるもの、之を道と謂ひ、形而下なるもの、之を器と謂ふ。
ただちに音楽に対応させてみれば、音楽そのものは「絶対時間」を有しつつも、映画と違って物質に頼らない「形而上」の存在だといえる。つまり、音楽は「形而上的絶対時間芸術」と表記できるだろう。文学も、文字そのものを鑑賞する芸術ではなく、あくまで言語の連なる意味を表現した芸術だ。形を持たないので、同様に「形而上的相対時間芸術」とすれば、これで文芸も表せる。すごい発明ではないか。突貫にしては時間芸術の新しい分類として公開できる出来栄えである。
いやあ、待たせたなノーランくん。きみの取り組んでいる映画とやらは、これから「形而下的絶対時間芸術」に分類させてもらうとするよ。気に入ってくれたかい。え、なんだって。長くてややこしいなんて、そんな馬鹿な。なに、この席に座ればいいのかね。待てよ、そのクリップは見覚えがあるぞ。まさかまぶたを押し広げるつもりじゃないよな。おい、ちょっと、やめてくれ、もうこれ以上『フォロウィング』を再生しないでくれ。
ぎゃああえええばっ。
映画凡人が綴りし駄文~「時間芸術の非分類学」~
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