びたあっ。音を立てて筆が止まる。あまりの反動で手首が折れかけたが、どうしたのかい、となんだか間抜けな表情で固まっている原稿とにらめっこするうちに、じわじわと呼吸困難に陥りそうなほどの笑いがこみあげてきた。この絶望的なまでの未完成ぶり、いよいよサグラダ・ファミリアの工期のほうが先に終わりそうじゃないか。こんなにも遅々として進まない小説があるなら、すぐさま虚偽告訴罪の疑いで厳しく取り締まってもらわねばなるまい。言い逃れは無用だぞ。さあ、牢獄でたっぷり反省文でも書きたまえ。ぐへへ。
と、毎回エッセイのセオリーがわからないので好き勝手に書き殴ってみると、やはり文章の連なりからなる構造体として、小説とエッセイは共通点が多いように思う。ずいぶん見た目が似ているし、こんな風にどっちつかずの変装をして境界をまたいだら、区別できずに「いまのどっちだ」と勘違いする人もいるかもしれない。でも、そうした悪意のある細工がないかぎりは、いま読んでいる文章がどちらかなんて迷ったりせず、自然と見分けられるものである。
もちろん、最古の文学作品である『ギルガメシュ叙事詩』から随筆の先駆者・モンテーニュの『エセー』まで起源を辿れば、なるほどこの地点で分化したおなじ子であるぞ、と明示できるだろうが、べつに厳密な話をしたいわけじゃない。こちとら駄文なのだ。カジュアルに疑問をぶちまければ、「どうして映画になるとエッセイが死んでしまうのか」である。試験管に映画を浸し、文学という試薬を混ぜるところまでは一緒の工程であっても、いざ出来上がるとなぜかエッセイだけ溶けてなくなるのだ。あとで還元してみても、取り出した物質は小説に見えてしまう。
抽象的すぎるので事例をあげてみよう。
たとえば小説が映画化した場合、それは劇映画と呼ばれる創作物になる。小説の語り部は仮想的な人物であり、内容は虚構を含んだ物語なのだから、劇映画の特性とも抜群にマッチする。一方、エッセイの語り部は著者本人である。内容は虚実の入り混じった主観的な思考であり、物語を持つ必然性もない。ならば手法として、ドキュメンタリーが適していそうだが、不可解なことに出来上がる映画をそう呼ぶ人はいない。『南極料理人』『日日是好日』は言わずもがな、『グーグーだって猫である』『あの頃。』『ツレがうつになりまして。』もすべて俳優が演じ、物語が与えられ、語り部も完全に他者にすげ変わった、紛うことなき劇映画に変異してしまうのだ。もはやイリュージョンである。目を凝らしていたのに白昼堂々の失踪事件が発生するなんて。エッセイめ、いったいどこへ消えたのだ。
感情に身を任せて闇雲な捜査に走る前に、おおよその行き先に検討をつけておきたい。いつも「くそ、先に引いておけばこんなことにはならなかった」でおなじみ辞書によれば、エッセイとは【特定の文学的形式を持たず、書き手の随想を思うがままに書き記した文章のことである】らしい。つまり重要なのは、作り手という「主観性が本体」であり、それを失った時点でエッセイは原型を留めておけなくなるのだろう。
この仮説は悪くなさそうだ。映像化を試みた途端、他者に委ねることのできない主観から真っ先に崩壊していくのだから、完成した映画からは決してエッセイの名残を見つけることはできない。そうとわかれば原作に頼らず、映画専用のエッセイを作ればよいのだ。監督自身がカメラを回して、Vlogのように自らを撮影し、そのフィルムをつなぎ合わせればエッセイが誕生しそうではある。
いや、しないか。これでは単なる記録映画で片づけられてしまう。いくら主観性を保っていようと、文芸に置き換えればノンフィクションやルポルタージュに近づき、エッセイの自由な気質からはますます遠ざかっていく。なんと相性の悪いことか。
暗中模索、五里霧中。寸暇を惜しんで行われた捜索隊の仕事も完全に行き詰ったようだ。エッセイの宿主は主観性とばかり思っていたのに、成果のないまま日が暮れてゆく。というより、僕は夜型なので夜が明けてしまう。正直、もう明けた。根詰めても解けないのだから、その場合は諦めて問題ごと寝かせてしまったほうがいい。
翌日すっきりした頭で、あらためて向き合ってみる。映画に取り込まれて消え去ったエッセイの足取りを求めて、なんとはなしに書き進めてきた文章の痕跡を眺めてみると、見落としていた「映画専用のエッセイ」という記述に気づく。ほらね、忘れていた。たしか古くから「映画エッセイ」というジャンルがあったはずだぞ。
心なしかキーボードを叩く指もはやい。Wikipediaによれば【映画監督が主観的なアプローチを強調して、物語のパターンの制約から抜け出す、長編映画とドキュメンタリー映画の中間の実験的な映画形式】とされている。
これぞ突破口だ、と勇んでみたものの、なんだか実態がつかめない。絶対数が少なく、絶滅危惧種のようなジャンルだ。僕も実物を観たことがないし、記事にもほとんど代表作が挙げられていないのだから、確かめようがない。これは見なかったことにしよう。ちなみにこうやって匙を投げてしまうのは、これがきちんとしたエッセイでない証拠でもある。一般的な作家なら、すぐにでも図書館や国立映画アーカイブに駆け込み、間違いなく裏を取ってから文章に起こす。思いつきで動くと失敗する典型例を、まさにいまドキュメンタリーでお送りしているわけだ。
しかし、こんなことでは困る。僕は停滞し続ける小説に嫌気が差し、憂さ晴らしのために駄文を書き連ねているわけで、エッセイストでも研究者でもないのだ。ここでも行き詰って髪を搔きむしるくらいなら、意味がないどころか苦悩が二倍に増えている。大損ではないか。
やめやめ、打ち止めだ。もう降参して、そろそろ囚われの身になった小説を迎えに行くとしよう。いまごろは留置所でしょんぼり泣いているだろうと想像していたものの、いつのまに自力で戻ってきたのか、まるで立派に闘い切った格闘家みたいに居間で小説が大の字になってぶっ倒れていた。墨だらけの紙面があちこちに散らばり、ところどころ原稿からこぼれたふがいない文字が畳を黒く染めている。その横に、やつが一心不乱に書いたと思しき、分厚い反省文が積みあがっていた。何気なく手に取って、ページを捲ってみる。へえ、なかなかやるな。ページを捲る。ふむ、そうか。捲る。捲る。捲る。やがて肩が震えだし、汗で僕の指まで黒く湿る。ダムが決壊したようにいつしか笑いが止まらなくなった。ぐへへ、どうしてこんなところにいるのだ。こいつは純然たるエッセイではないか。
虚構であろうとなかろうと、独白する意識にはエッセイが宿っている。つまり本質は言葉だ。「随想の言語化」こそがエッセイなのだろう。だとすれば、僕は映画のエッセイにもう出会っていることになる。
デレク・ジャーマンの遺作『BLUE』は、ひたすら真っ青な画面が投影され、そこに延々と死期の迫った彼の生涯を思索するモノローグが重なっていく映画だ。いや、映画と呼ぶにはいくらなんでも不格好で、前衛的で、実験的だが、観客に語りかける言語化された随想は、映像が動かなくとも、まさに「エッセイ映画」と呼ぶに相応しい。
「やっと私を見つけてくれましたね」どこからともなく声がした。妙な感覚だ。握りしめていた反省文から、直接、脳に言葉が流れ込んでいるとしか思えない。
「私はエッセイの神です。ずっと待っていましたよ。あなたが見当はずれな迷走を続けているあいだ、それはそれはあまりにも長かったので、代わりに未完成だった小説の原稿を手直しさせてもらったのです。ほほ、さあ受け取りなさい。あなたが欲しいのは、この完成した金の原稿ですか。それともこちらの銀の原稿ですか」
ほほう。暴力的なまでに古典的な展開に、すかさず天井を睨めつける。このエッセイの書き手も、いいかげん疲弊してやけくそになっているのだろうか。
僕は雑念を捨て、堂々と宣言した。「当然、受け取るのはどちらでもありません。絶望的に未完成な、この無様に横たわった原稿です」
「いかにも」神は肯いた。「あなたはきちんと現実がわかってらっしゃるようです。ならばそのまま現実と向き合いなさい。二度と甘えてはいけませんよ、ほほほ」
ばちんっ。唐突に叩かれた頬をさすりながら、僕はベッドの上で目を覚ました。ひどい。ひどすぎる。この期に及んで夢オチとは、エッセイの風上にも置けない暴挙であるぞ。というか、これはエッセイなのか。小説なのか。なんでもよい、とにかく駄文には違いない。
ああ、意味もなく姿をくらましたエッセイなど追わなければよかった。
次こそは筆が走って走ってしょうがない疾走する小説を探すとしよう。
映画凡人が綴りし駄文~「失踪するエッセイ」~
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