ああ、完全にどうかしている。もう二度と映画の本質論めいたタイトルに走らず、バターしょうゆ味のマイクポップコーンみたいにふわっふわで腹にたまらない、でも病みつきになっちゃう文章を書こうと誓ったのに、気づいたら怪獣の股下から黒々とした股間を見上げて「で、でかい」と腰を抜かしながらポップコーンをぶちまける、死にゆく一般人Dのような立場になっている。こいつはとんでもない主題を立ち上げてしまった。
もちろん、映画館は大好きである。ラジオ内でも、一年目から映画館に行って新作を楽しもう、と啓蒙するコーナーをやっているし、もはや劇場に布団を敷いて暮らしたほうが安上がりなのでは、と血迷うほどにどっぷりと入り浸っていた時期もある。ならば疑う余地もなく、「映画は映画館で楽しむもの」だと結論づけてしまって構わないのだけど、なんだかそれもむず痒い。自宅鑑賞が圧倒的に増えたこの二年間で、どうも僕の常識が揺らいでいるようなのだ。
そもそも常識とやらも、かの天才物理学者アインシュタインに言わせれば、「18歳までに身に着けた偏見のコレクションでしかない」らしい。あれ、言っているそばから偏見じみた年齢設定に目が点になりそうだが、そんな常識の目さえつむってしまえば、実に偉人らしく含蓄に富んだ教えではないか。つまり、かつて僕の固定観念が形成された最初のイベントがあり、その瞬間まで記憶をたどって修正できれば、この名状しがたいむず痒さから解放されるかもしれないのだ。これぞ金のかからないセルフカウンセリングといえよう。
幸いにも心当たりがある。小学生のころ、思えば半年に一回くらいのペースで、下校時に名物のおじさんが現れたのだ。名物といっても、怪しげなデロリアンを改造するアインシュタイン似の科学者や、シルクハットを被ったチョコレート好きの工場長とは違って、きわめて健全な見た目をしたおじさんだ。しかも喋ったり、笑ったりもしない。一見すると愉快なイメージとは程遠いのに、いつもハリウッドスター顔負けの人気で長蛇の列を作っていた。
その正体は、映画館の館長である。
明け透けに言ってしまえば、おじさんの目的は宣伝なのだ。純真無垢な子どもたちに映画の割引券を掴ませたら、おそらく駄々をこねられた親もろとも劇場に引きずり込めるに違いない、ぐふふ、と踏んでの行脚作戦が実施されていたわけだ。たかだか二〇〇円くらい安くなるだけの紙切れを、僕はチョコレート工場行きの煌びやかなゴールデンチケットのごとく枕元で愛でながら、あくる日もあくる日もまだ見ぬ映画を夢想していた。
そして願いが叶い、なんと公開日を迎えたばかりの『ゴジラvsスペースゴジラ』に、友人と二人きりで行けることになったのだ。親抜きでの映画鑑賞とは贅沢の極み、館長にしてみれば目論見どおりとはならなかったが、前日から眠れなかった僕にしてみれば冒険活劇の主役になった気分である。友人と合算した小銭を指折り計算しつつ、鈍行列車を二回も乗り継ぎ、ときどき間違った改札を通ったりしながら、なんとか目的の映画館にたどり着いた。シネコンが台頭する前に存在した、地元に根差す個人経営の小さな小さな劇場だ。
しかし無事に到着しただけであり、上映時間にはちっとも間に合っていなかった。僕らは暢気に「次の上映まで待ってようぜ」と、遊び道具もない待合所に持参したレジャーシートを広げたが、慌てた映画館のおばちゃんに「いますぐ見なさいよ。次の回はもっと人が来るんだから、それどころじゃないんだから」と脅され、途中からの立ち見を余儀なくされた。
案の定、ぜんぜん話がわからないし、どのくらい見逃しているのか想像もつかない。だとしても、人影で欠けたスクリーンのなかで、ゴジラが迫力の激闘を繰り広げている姿をちらと観られただけで鼻息が荒くなり、大興奮だった。シリーズを通していちばん好きなゴジラ作品は、いまだに『ゴジラvsスペースゴジラ』であり、今後も上書きされる予定はない。内容はさして重要でないのだろう。僕にとって「体験そのものが映画」だった年代の貴重な作品であり、似たような体験をふたたび味わうために、いまも映画館に足を運ぶのかもしれない。
あ、困った。修正しようにも、あまりに美化されすぎた思い出には手の施しようがない。選択肢がなかった時代の「シネマ・コンプレックス」とでも呼ぶべきイノセンスな強迫観念が、僕のなかで映画を映画たらしめているのだ。そして傲慢にも、おおかた一般の人とも共有できる感覚だと信じていた節がある。
そういえば先輩作家・吉野万理子さんの『シネマガール』の解説を書かせてもらったとき、僕は生意気にもこう残していた。
――映画の楽しみ方を知った真琴に、僕はひとつだけアドバイスを送りたい。「よかったら映画館に足を運んでほしい」と。
作品が一冊の本になることを想定しない小説家がいないように、家庭用のプレイヤーで鑑賞してもらうことを前提に映画を作っている監督なんていないからだ。
いまにして思えば、とんだ妄言である。たしかに『アラビアのロレンス』みたいに、広大な砂漠にぽつんとある人影らしきものが、たっぷりと時間をかけてじんわりと現れる、それこそ多種多様なオノマトペでしか伝えられないゴリゴリにバキバキな表現を、自宅で再現できるのかは甚だ疑問である。お茶の間に『2001年宇宙の旅』がやってきたときも、淀川長治は「見ないよりはまし」と言ったとか言わなかったとか。古典にかぎらず、「これはIMAXでないと映画を観たことにならないね」などといった言説は現代にも蔓延っている。
でも、それって本当だろうか。
不思議なことに、テレビやレンタルショップが隆盛していたころは、だれも映画の特権的な地位までが脅かされるとは思っていなかった。すでに映画は家庭用サイズに縮小再生産されていたのに、配信オリジナル作品がめくるめくスピードで業界を跋扈するまで、クリエイターにとって「映画は映画館で楽しむもの」とする前提は覆らなかったのだ。
このパラダイムシフトは、すでに音楽や小説では過去のものになっているかもしれない。コンセプトアルバムの曲順がランダムで再生されたり、フォントサイズを変更されて句読点の位置が変わったり、受け手の消費に多様性が与えられた分、作り手のコントロールできる表現の領域はどんどん狭まっている。だからって「こりゃ表現の侵害だ。由々しき事態だ」とことさらに嘆く必要はない。あくまで体験の仕方がひとつ増えただけである。人に置き換えれば、頭から靴の先までばっちりコーディネートした「僕」を見た人と、家庭用のスウェット姿で髪型のだらしない「僕」を見た人では、抱く印象は違っても「僕」を見た事実に変わりないはずだ。
結果的にポン・ジュノの『オクジャ』は劇場公開を目指していたものの、テーマ的に日常を排した特殊環境下での上映よりも、画面からすこし視線をずらせば、否が応にも映画と地続きな世界が眼前に、生々しく広がっていることを痛感できる配信のほうが相応しく、あのバランスで正解だったと思う。むしろ配信特有の新しい体験の一翼を担ったのではないか。なり損ないのゲームみたいな『ブラック・ミラー:バンダースナッチ』風に尖らせなくとも、個人の画面に向けたアプローチなんていくらでも存在しうる。
さらに言えば、「体験の仕方がひとつ増えた」という言い回しは不正確かもしれない。歴史上、現在の「映画館の原型」を作ったリュミエール兄弟のシネマトグラフが120年近く商業映画のスタンダートとして受け入れられただけであって、エジソンの発明した覗き眼鏡式映写機キネトスコープだって、ほぼ同時期に生まれているのである。つまり、「大衆で共有する映画」も、「個人で体感する映画」も、映画が誕生した黎明期から存在したのだ。
その二分されていた双子の片割れが、デロリアンに乗って「やっほーただいま」と帰ってきたのだから、映画好きとしては、これまでの映画と同様に、おうちで楽しむ配信映画も抱きしめて歓迎してあげたいものだ。そのうち双子の区別ができなくなるかもしれないけど、それはそれで魅力的な成長だと思う。
と、はたまた駄文らしからぬ勢いで、ずいぶんと厚かましい文章を書いてしまった。存在意義なんてどんな話題でも手に余るのだから、もっと積極的に意味のなさを追求しなければなるまい。よーし、次回こそポップコーンを頬張りながらパジャマ姿で小躍りしようっと。それを文字に起こせたら、これから物書きもライブが可能になるぞ。
映画凡人が綴りし駄文~「映画館の存在意義」~
┃映画エッセイ一覧┃ https://bit.ly/3ofnLGe
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