森達也『FAKE』について

佐村河内守を追ったドキュメンタリー映画『FAKE』の感想を記しておく。
思い切りネタバレなので(かつ妄言なので)、ご了承ください。

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森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」という言葉を前提に、ぼくはこの映画を歪んだ角度から深読みしてみることにした。なぜならこの映画を観終わった観客が、つまりぼくのような人間が他人に「虚構」を語ることを織り込み済みで、この映画は『FAKE』と名付けられているのだと思うからだ。

ではタイトル『FAKE』とはなにを指すのか。
だれが嘘をついていたのか。佐村河内守なのか、ゴーストライターの新垣隆なのか、この映画を作った監督の森達也なのか、はたまた佐村河内守の妻・香なのか。

結論から申せば、全員である。

ここからはあくまでぼく個人による作り話だが、「この映画で佐村河内守の言ったことは、すべて正しい」と仮定したとき、描かれていないパズルのピースをはめてみるとすんなりと物事がクリアに見えた気がした。彼ら全員は、あるひとつの大きな秘密を隠し続けてきた共犯者のようなものなのだ。
では、そのひとつの大きな秘密とはなにか。

それは「佐村河内守の妻・香の作曲への関与」だ。


嘘をついた一人目は、新垣隆である。
劇中の佐村河内守の言葉を鵜呑みにすると、新垣隆は18年間も佐村河内守とともに作曲活動をしてきたにもかかわらず、じつは二人のあいだにコミュニケーションの手段がなかったのではないか、という疑惑が生じた。
佐村河内守は「新垣氏は、はじめのころは必死に筆談をしようと努力してくれた」と話していたが、のちに「作曲中、ぼくらのあいだには会話がなかった」ということを打ち明けた。そして妻の香はこうも言った。「新垣氏は手話ができないのだ」と。

ふたりのあいだには筆談もなく、口話や手話によるコミュニケーションもなかった。そんな状況下ではたして作曲など可能なのか。
それらを取り纏める「仲介人の存在」を疑うのは、じつに自然な流れに思える。


嘘をついた二人目は、佐村河内守である。
彼は一連の騒動の発端である新垣隆を「どうしてこんなことをするのかわからない」とした上で、彼を「嘘つき」だと非難した。だが公に真実を語る場を設けて、正式に新垣氏を糾弾をしようとはしていない。
無理もない話だ。彼からしてみれば、信用していた作曲のパートナーに裏切られた挙句、マスコミから強烈なバッシングを受け、仕事も友人も地位も名誉も、なにもかもすべてを失ったのだ。もう二度と傷つきたくはないし、マスコミを信頼するなんてできない。
でも言い換えれば、すべてを失ったように見える彼が、まだこれ以上に傷つくことを恐れているからこそ、新垣隆の虚言に対し、真実を語って立ち向かうことができないのだ。
佐村河内守は真実を語らない。それは妻を傷つけ、失わないために。

逆説的にいえば、新垣隆は真実が語られないことをわかっていいるからこそ、堂々と佐村河内守を悪者として貶めることができるのだ。
そして自分が虚構の上に築き上げてきた地位を、唯一、脅かす真実がこのドキュメンタリー映画にはあると見抜き、彼は一切の取材に応じなかった。
その隠されてきた真実とはなにか。

佐村河内守、妻の香、新垣隆の三人による「共作の事実」である。


嘘をついた三人目は、森達也である。

この映画の監督である彼は、意図して確信的なカットを落としている。
それが顕著なのは、米国の音楽雑誌インタビュアーが訪れたシークエンスだ。彼らは佐村河内守が綿密に作り上げた「曲になる前の設計図」の存在を認めた上で、純粋な疑問をぶつけた。

「私たちは、この設計図を読み解けない。これが音楽作品となっていく過程が想像できない。なので、その過程を目の前で見せてほしい」

それを証拠として提示すれば、佐村河内守が耳の聞こえない作曲家であることはだれも疑わずに済むのだ、と。
だが、佐村河内守が難色を示すと、唐突に、このシークエンスが終わってしまう。
森達也が使わなかったカットを公表することはないし、どのような意図で編集し、構築したのか、だれも知ることはできない。ただ「作品をつくる過程に肝がある」ことが示唆されるだけだ。


その直前、米国の雑誌インタビュアーは佐村河内守に印象的なことを訊いていた。

「あなたは作曲の指示しか与えていないが、それでも自分が作者であるという認識なのか」

これはダイレクトに、映画監督である森達也の仕事そのものに跳ね返ってくる。そもそも映画づくりとは壮大な共作である。エンドクレジットを観れば一目瞭然であるように、このドキュメンタリーにも多くのスタッフが介在している。そしてこれみよがしに最後に現れるのは「監督・森達也」の名前なのだ。
この映画は森達也の作品として発表され、そのことをだれも疑ったりしない。
佐村河内守の作品に対してもおなじことだ。複数の共作者がいたところでなにもおかしいことではない。だからラストで森達也は彼に訊ねる。
「ぼくに嘘をついていることはありませんか」
佐村河内守は沈黙する。その沈黙こそが、雄弁に秘密を隠していることを物語っている。


嘘をついた四人目は、妻の香である。

米国の雑誌インタビュアーに対し、彼女ははっきりと言った。
「私は佐村河内守と新垣隆の仕事に関わったことがない」
そう宣言しておきながら、彼女は佐村河内守の作品への助言を求められたとき、すんなりとシンセサイザーの前に座り、「チェロの音が思ったとおりに鳴っているかどうか」のチェックをする。それはあまりにも自然で、あたかも普段から似たような作業をしているかのようだった。

おそらく、彼女こそが「曲になる前の設計図」を「音楽作品」へと変換させていくキーパーソンなのだろう。佐村河内守の大事な耳であり、優秀な技術者である新垣隆との仲介人なのだ。

だから曲づくりの過程を見せることはできなかったし、証拠も提示できなかった。佐村河内守の作曲に密接に香が関わっていることが知れたら、またどれだけのバッシングを受けるかわからない。


森達也は彼らを信じ、彼らと「心中」する決意をしたからこそ、確信的な秘密を映像に収めることができた。
彼の映画は弱者のそばに寄り添う。もういちど自分の足で立ち上がるためのお手伝いをしながら、ときに厳しく、ときに優しく接してくれる。

なにが真実でなにが嘘か、じつはあまり重要ではない。
ただ映画の力によって、ひとりの人間を救うことができるのなら。この映画の意義はそこではないのか、とぼくは思う。


嘘をついた五人目は、この映画をみた観客である。
できることなら、そうであってほしい。


小島達矢(コタツ)

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